れませぬ。わたくしは一体多門よりも数馬に望みを嘱《しょく》して居りました。多門の芸はこせついて居りまする。いかに卑怯《ひきょう》なことをしても、ただ勝ちさえ致せば好《よ》いと、勝負ばかり心がける邪道《じゃどう》の芸でございまする。数馬の芸はそのように卑《いや》しいものではございませぬ。どこまでも真《ま》ともに敵を迎える正道《せいどう》の芸でございまする。わたくしはもう二三年致せば、多門はとうてい数馬の上達《じょうたつ》に及ぶまいとさえ思って居りました。………」
「その数馬をなぜ負かしたのじゃ?」
「さあ、そこでございまする。わたくしは確かに多門よりも数馬を勝たしたいと思って居りました。しかしわたくしは行司でございまする。行司はたといいかなる時にも、私曲《しきょく》を抛《なげう》たねばなりませぬ。一たび二人《ふたり》の竹刀《しない》の間《あいだ》へ、扇《おうぎ》を持って立った上は、天道に従わねばなりませぬ。わたくしはこう思いましたゆえ、多門と数馬との立ち合う時にも公平ばかりを心がけました。けれどもただいま申し上げた通り、わたくしは数馬に勝たせたいと思って居《い》るのでございまする。云わば
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