心にかけられぬ様にと、今度は素直に申しました。その時はもう苦笑いよりは北叟笑《ほくそえ》んでいたことも覚えて居りまする。」
「何をまた数馬は思い違えたのじゃ?」
「それはわたくしにもわかり兼ねまする。が、いずれ取るにも足らぬ些細《ささい》のことだったのでございましょう。――そのほかは何もございませぬ。」
 そこにまた短い沈黙があった。
「ではどうじゃな、数馬の気質は? 疑い深いとでも思ったことはないか?」
「疑い深い気質とは思いませぬ。どちらかと申せば若者らしい、何ごとも色に露《あら》わすのを恥じぬ、――その代りに多少激し易い気質だったかと思いまする。」
 三右衛門はちょっと言葉を切り、さらに言葉をと云うよりは、吐息《といき》をするようにつけ加えた。
「その上あの多門との試合は大事の試合でございました。」
「大事の試合とはどう云う訣《わけ》じゃ?」
「数馬は切《き》り紙《がみ》でござりまする。しかしあの試合に勝って居りましたら、目録を授《さずか》ったはずでございまする。もっともこれは多門にもせよ、同じ羽目《はめ》になって居りました。数馬と多門とは同門のうちでも、ちょうど腕前の伯仲《はくちゅう》した相弟子《あいでし》だったのでございまする。」
 治修《はるなが》はしばらく黙ったなり、何か考えているらしかった。が、急に気を変えたように、今度は三右衛門の数馬《かずま》を殺した当夜のことへ問を移した。
「数馬は確かに馬場の下にそちを待っていたのじゃな?」
「多分はさようかと思いまする。その夜《よ》は急に雪になりましたゆえ、わたくしは傘《かさ》をかざしながら、御馬場《おばば》の下を通りかかりました。ちょうどまた伴《とも》もつれず、雨着《あまぎ》もつけずに参ったのでございまする。すると風音《かざおと》の高まるが早いか、左から雪がしまいて[#「しまいて」に傍点]参りました。わたくしは咄嗟《とっさ》に半開きの傘を斜めに左へ廻しました。数馬はその途端《とたん》に斬《き》りこみましたゆえ、わたくしへは手傷も負《お》わせずに傘ばかり斬ったのでございまする。」
「声もかけずに斬って参ったか?」
「かけなかったように思いまする。」
「その時には相手を何と思った?」
「何と思う余裕《よゆう》もござりませぬ。わたくしは傘を斬られると同時に、思わず右へ飛びすさりました。足駄《あしだ》ももうその時に
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