は脱《ぬ》いで居ったようでございまする。と、二《に》の太刀《たち》が参りました。二の太刀はわたくしの羽織の袖《そで》を五寸ばかり斬り裂きました。わたくしはまた飛びすさりながら、抜き打ちに相手を払いました。数馬の脾腹《ひばら》を斬られたのはこの刹那《せつな》だったと思いまする。相手は何か申しました。………」
「何かとは?」
「何と申したかはわかりませぬ。ただ何か烈しい中に声を出したのでございまする。わたくしはその時にはっきりと数馬だなと思いました。」
「それは何か申した声に聞き覚えがあったと申すのじゃな?」
「いえ、左様ではございませぬ。」
「ではなぜ数馬と悟《さと》ったのじゃ?」
 治修はじっと三右衛門を眺めた。三右衛門は何とも答えずにいる。治修はもう一度|促《うなが》すように、同じ言葉を繰り返した。が、今度も三右衛門は袴《はかま》へ目を落したきり、容易に口を開こうともしない。
「三右衛門、なぜじゃ?」
 治修はいつか別人のように、威厳のある態度に変っていた。この態度を急変するのは治修の慣用手段《かんようしゅだん》の一つである。三右衛門はやはり目を伏せたまま、やっと噤《つぐ》んでいた口を開いた。しかしその口を洩《も》れた言葉は「なぜ」に対する答ではない。意外にも甚だ悄然《しょうぜん》とした、罪を謝する言葉である。
「あたら御役《おやく》に立つ侍を一人、刀の錆《さび》に致したのは三右衛門の罪でございまする。」
 治修《はるなが》はちょっと眉《まゆ》をひそめた。が、目は不相変《あいかわらず》厳《おごそ》かに三右衛門の顔に注がれている。三右衛門はさらに言葉を続けた。
「数馬《かずま》の意趣《いしゅ》を含んだのはもっともの次第でございまする。わたくしは行司《ぎょうじ》を勤めた時に、依怙《えこ》の振舞《ふるま》いを致しました。」
 治修はいよいよ眉をひそめた。
「そちは最前《さいぜん》は依怙は致さぬ、致す訣《わけ》もないと申したようじゃが、……」
「そのことは今も変りませぬ。」
 三右衛門は一言《ひとこと》ずつ考えながら、述懐《じゅっかい》するように話し続けた。
「わたくしの依怙と申すのはそう云うことではございませぬ。ことさらに数馬を負かしたいとか、多門《たもん》を勝たせたいとかと思わなかったことは申し上げた通りでございまする。しかし何もそればかりでは、依怙がなかったとは申さ
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