れませぬ。わたくしは一体多門よりも数馬に望みを嘱《しょく》して居りました。多門の芸はこせついて居りまする。いかに卑怯《ひきょう》なことをしても、ただ勝ちさえ致せば好《よ》いと、勝負ばかり心がける邪道《じゃどう》の芸でございまする。数馬の芸はそのように卑《いや》しいものではございませぬ。どこまでも真《ま》ともに敵を迎える正道《せいどう》の芸でございまする。わたくしはもう二三年致せば、多門はとうてい数馬の上達《じょうたつ》に及ぶまいとさえ思って居りました。………」
「その数馬をなぜ負かしたのじゃ?」
「さあ、そこでございまする。わたくしは確かに多門よりも数馬を勝たしたいと思って居りました。しかしわたくしは行司でございまする。行司はたといいかなる時にも、私曲《しきょく》を抛《なげう》たねばなりませぬ。一たび二人《ふたり》の竹刀《しない》の間《あいだ》へ、扇《おうぎ》を持って立った上は、天道に従わねばなりませぬ。わたくしはこう思いましたゆえ、多門と数馬との立ち合う時にも公平ばかりを心がけました。けれどもただいま申し上げた通り、わたくしは数馬に勝たせたいと思って居《い》るのでございまする。云わばわたくしの心の秤《はかり》は数馬に傾いて居るのでございまする。わたくしはこの心の秤《はかり》を平《たい》らに致したい一心から、自然と多門の皿の上へ錘《おもり》を加えることになりました。しかも後《のち》に考えれば、加え過ぎたのでございまする。多門には寛《かん》に失した代りに、数馬には厳に過ぎたのでございまする。」
三右衛門はまた言葉を切った。が、治修は黙然《もくねん》と耳を傾けているばかりだった。
「二人は正眼《せいがん》に構えたまま、どちらからも最初にしかけずに居りました。その内に多門は隙《すき》を見たのか、数馬の面《めん》を取ろうと致しました。しかし数馬は気合いをかけながら、鮮《あざや》かにそれを切り返しました。同時にまた多門の小手《こて》を打ちました。わたくしの依怙の致しはじめはこの刹那《せつな》でございまする。わたくしは確かにその一本は数馬の勝だと思いました。が、勝だと思うや否や、いや、竹刀の当りかたは弱かったかも知れぬと思いました。この二度目の考えはわたくしの決断《けつだん》を鈍《にぶ》らせました。わたくしはとうとう数馬の上へ、当然挙げるはずの扇を挙げずにしまったのでございま
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング