と思うことはございまする。」
「何じゃ、それは?」
「四日ほど前のことでございまする。御指南番《ごしなんばん》山本小左衛門殿《やまもとこざえもんどの》の道場に納会《のうかい》の試合がございました。その節わたくしは小左衛門殿の代りに行司《ぎょうじ》の役を勤めました。もっとも目録《もくろく》以下のものの勝負だけを見届けたのでございまする。数馬の試合を致した時にも、行司はやはりわたくしでございました。」
「数馬の相手は誰がなったな?」
「御側役《おそばやく》平田喜太夫殿《ひらたきだいふどの》の総領《そうりょう》、多門《たもん》と申すものでございました。」
「その試合に数馬《かずま》は負けたのじゃな?」
「さようでございまする。多門《たもん》は小手《こて》を一本に面《めん》を二本とりました。数馬は一本もとらずにしまいました。つまり三本勝負の上には見苦《みぐる》しい負けかたを致したのでございまする。それゆえあるいは行司《ぎょうじ》のわたくしに意趣を含んだかもわかりませぬ。」
「すると数馬はそちの行司に依怙《えこ》があると思うたのじゃな?」
「さようでございまする。わたくしは依怙は致しませぬ。依怙を致す訣《わけ》もございませぬ。しかし数馬は依怙のあるように疑ったかとも思いまする。」
「日頃はどうじゃ? そちは何か数馬を相手に口論でも致した覚えはないか?」
「口論などを致したことはございませぬ。ただ………」
三右衛門はちょっと云い澱《よど》んだ。もっとも云おうか云うまいかとためらっている気色《けしき》とは見えない。一応《いちおう》云うことの順序か何か考えているらしい面持《おもも》ちである。治修《はるなが》は顔色《がんしょく》を和《やわら》げたまま、静かに三右衛門の話し出すのを待った。三右衛門は間《ま》もなく話し出した。
「ただこう云うことがございました。試合の前日でございまする。数馬は突然わたくしに先刻の無礼を詫《わ》びました。しかし先刻の無礼と申すのは一体何のことなのか、とんとわからぬのでございまする。また何かと尋ねて見ても、数馬は苦笑《にがわら》いを致すよりほかに返事を致さぬのでございまする。わたくしはやむを得ませぬゆえ、無礼をされた覚えもなければ詫びられる覚えもなおさらないと、こう数馬に答えました。すると数馬も得心《とくしん》したように、では思違いだったかも知れぬ、どうか
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