A中尉は次に命令する言葉を心の中に用意していた。が、しばらく何も言わずに甲板《かんぱん》の上を歩いていた。「こいつは罰を受けるのを恐れている。」――そんな気もあらゆる上官のようにA中尉には愉快でないことはなかった。
「もう善《い》い。あっちへ行《ゆ》け。」
A中尉はやっとこう言った。Sは挙手の礼をした後《のち》、くるりと彼に後《うし》ろを向け、ハッチの方へ歩いて行こうとした。彼は微笑《びしょう》しないように努力しながら、Sの五六歩|隔《へだた》った後《のち》、俄《にわ》かにまた「おい待て」と声をかけた。
「はい。」
Sは咄嗟にふり返った。が、不安はもう一度|体中《からだじゅう》に漲《みなぎ》って来たらしかった。
「お前に言いつける用がある。平坂下《ひらさかした》にはクラッカアを売っている店があるな?」
「はい。」
「あのクラッカアを一袋買って来い。」
「今でありますか?」
「そうだ。今すぐに。」
A中尉は日に焼けたSの頬《ほお》に涙の流れるのを見のがさなかった。――
それから二三日たった後《のち》、A中尉はガンルウムのテエブルに女名前の手紙に目を通していた。手紙は桃色の書簡箋《
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