)何か彼のために言ってやりたいのを感じた。しかしその「何か」も口を出た時には特色のない言葉に変っていた。
「静かだな。」
「うん。」
 甲板士官はこう答えたなり、今度は顋《あご》をなでて歩いていた。海戦の前夜にK中尉に「昔、木村重成《きむらしげなり》は……」などと言い、特に叮嚀《ていねい》に剃《そ》っていた顋《あご》を。……
 この下士は罰をすました後《のち》、いつか行方《ゆくえ》不明になってしまった。が、投身することは勿論|当直《とうちょく》のある限りは絶対に出来ないのに違いなかった。のみならず自殺の行《おこな》われ易い石炭庫《せきたんこ》の中にもいないことは半日とたたないうちに明かになった。しかし彼の行方不明になったことは確かに彼の死んだことだった。彼は母や弟にそれぞれ遺書を残していた。彼に罰を加えた甲板士官は誰の目にも落ち着かなかった。K中尉は小心《しょうしん》ものだけに人一倍彼に同情し、K中尉自身の飲まない麦酒《ビール》を何杯も強《し》いずにはいられなかった。が、同時にまた相手の酔うことを心配しずにもいられなかった。
「何しろあいつは意地っぱりだったからなあ。しかし死ななくって
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