《い》い夢でも見ねば、実際見た夢を書く訣《わけ》に行《ゆ》かぬ。この故に小説に出て来る夢は、善《よ》く行つた所がドストエフスキイの困馬の夢を出難《でがた》いのである。しかし実際見た夢から、逆に小説を作り出す場合は、その夢が夢として書かれて居らぬ時でも、夢らしい心もちが現れる故、往々神秘的な作品が出来る。名高い自殺|倶楽部《クラブ》の話なぞも、ステイヴンソンがあの落想《らくさう》を得たのは、誰かが見た夢の話からだと云ふ。この故にさう云ふ小説を書かうと思つたら、時々の夢を記して置くが好《よ》い。自分なぞはそれも怠つてゐるが、ドオデエには確か夢の手記があつた。わが朝《てう》では志賀直哉《しがなほや》氏に、「イヅク川」と云ふ好小品がある。(十月二十五日)

     日本画の写実

 日本画家が写実にこだはつてゐるのは、どう考へても妙な気がする。それは写実に進んで行つても、或程度の成功を収められるかも知れぬ。が、いくら成功を収めたにしても、洋画程写実が出来る筈はない。光だの、空気だの、質量だのの感じが出したかつたら、何故《なぜ》さきにパレツトを執《と》らないのか。且又さう云ふ感じを出さうとする
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