のは、印象派が外光の効果を出さうとしたのとは、余程《よほど》趣《おもむき》が違《ちが》つてゐる。仏人《ふつじん》は一歩先へ出たのだ。日本画家が写実にこだはるのは、一歩横へ出ようとするのだ。自分は速水御舟《はやみぎよしう》氏の舞妓《まひこ》の画《ゑ》なぞに対すると、如何《いか》にも日本画に気の毒な気がする。昔|芳幾《よしいく》が描《か》いた写真画と云ふ物は、あれと類を同じくしてゐたが、求める所が鄙俗《ひぞく》なだけ、反《かへ》つてあれ程|嫌味《いやみ》はない。甚《はなはだ》失礼な申し分ながら、どうも速水氏や何かの画を作る動機は、存外《ぞんぐわい》足もとの浮いた所が多さうに思はれてならぬのである。(十一月一日)

     理解

 一時は放蕩《はうたう》さへ働けば、一かど芸術がわかるやうに思ひ上《あが》つた連中がある。この頃は道義と宗教とを談ずれば、芭蕉《ばせを》もレオナルド・ダ・ヴインチも一呑《ひとの》みに呑みこみ顔をする連中がある。ヴインチは兎《と》も角《かく》も、芭蕉さへ一通り偉さがわかるやうになるのは、やはり相当の苦労を積まねばならぬ。ことによると末世《まつせ》の我々には、死身《
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