に影響する限り、絢爛《けんらん》目を奪ふ如き文体が存外《ぞんぐわい》古くなる事は、殆《ほとんど》疑なきが如し。ゴオテイエは今日《こんにち》読むべからず。然れどもメリメエは日に新《あらた》なり。これを我朝の文学に見るも、鴎外《おうぐわい》先生の短篇の如き、それらと同時に発表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶清新の気に富む事、昨日《きのふ》校正を済まさせたと云ふとも、差支《さしつか》へなき位ならずや。ゾラは嘗《かつて》文体を学ぶに、ヴオルテエルの簡《かん》を宗《むね》とせずして、ルツソオの華《くわ》を宗《むね》とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを予言したる事ある由、善く己《おのれ》を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文体は作品のすべてにあらず。文体の如何《いかん》を超越したる所に、作品の永続性を求むれば、やはりその深さに帰着するならん。「凡そ事物の能《よ》く久遠《くをん》に垂るる者は、(中略)切実の体《たい》あるを要す」(芥舟学画編《かいしうがくぐわへん》)とは、文芸の上にも確論だと思ふ。(十月六日)

     流俗

 思ふに流俗なるものは、常に前代に
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