あなたのお部屋は涼しいでしょう。」
「ええ、……でも手風琴《てふうきん》の音ばかりして。」
「ああ、あの気違いの部屋の向うでしたね。」
 僕等はこんな話をしながら、しばらく縁先に佇んでいました。西日《にしび》を受けたトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいています。そこへ庭の葉桜《はざくら》の枝から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいました。それは実に呆《あ》っ気ない死です。同時にまた実に世話の無い死です。――
「フライ鍋の中へでも落ちたようですね。」
「あたしは毛虫は大嫌《だいきら》い。」
「僕は手でもつまめますがね。」
「Sさんもそんなことを言っていらっしゃいました。」
 M子さんは真面目《まじめ》に僕の顔を見ました。
「S君もね。」
 僕の返事はM子さんには気乗りのしないように聞えたのでしょう。(僕は実はM子さんに、――と云うよりもM子さんと云う少女の心理に興味を持っていたのですが。)M子さんは幾分か拗《す》ねたようにこう言って手すりを離れました。
「じゃまた後《のち》ほど。」
 M子さん
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