がて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺《じい》もそう思うであろうな。もっともその方には恋とは申さぬ。が、好物《こうぶつ》の酒ではどうじゃ。」
「いえ、却々《なかなか》持ちまして、手前は後生《ごしょう》が恐ろしゅうございます。」
 私が白髪《しらが》を掻きながら、慌ててこう御答え申しますと、若殿様はまた晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸《ひがん》に往生しょうと思う心は、それを暗夜《あんや》の燈火《ともしび》とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教《しゃっきょう》と恋との相違こそあれ、所詮は予と同心に極《きわ》まったぞ。」
「これはまた滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎芸天女《ぎげいてんにょ》も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御酒《ごしゅ》などと、一つ際《ぎわ》には申せませぬ。」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀《みだ》も女人《にょにん》も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡《くぐつ》の類いにほかならぬ。――」
 こう若殿様が御云い張りになると、急に御姫様は偸《ぬす》むように、ちらりとその方を御覧になりながら、
「それでも女子《おなご》が傀儡では、嫌じゃと申しは致しませぬか。」と、小さな御声で仰有いました。
「傀儡《くぐつ》で悪くば、仏菩薩《ぶつぼさつ》とも申そうか。」
 若殿様は勢いよく、こう返事をなさいましたが、ふと何か御思い出しなすったように、じっと大殿油《おおとのあぶら》の火影《ほかげ》を御覧になると、
「昔、あの菅原雅平《すがわらまさひら》と親《したし》ゅう交っていた頃にも、度々このような議論を闘わせた。御身も知って居《お》られようが、雅平《まさひら》は予と違って、一図に信を起し易い、云わば朴直な生れがらじゃ。されば予が世尊金口《せそんこんく》の御経《おんきょう》も、実は恋歌《こいか》と同様じゃと嘲笑《あざわら》う度に腹を立てて、煩悩外道《ぼんのうげどう》とは予が事じゃと、再々|悪《あ》しざまに罵り居った。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平は行方《ゆくえ》も知れぬ。」と、いつになく沈んだ御声でもの思わしげに御呟《おつぶや》きなさいました。
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