この狭い洛中でさえ、桑海《そうかい》の変《へん》は度々《たびたび》あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流《せいめつせんりゅう》して、刹那も住《じゅう》すと申す事はない。されば無常経《むじょうきょう》にも『|未[#四]曾有[#三]一事不[#レ]被[#二]無常呑[#一]《いまだかつていちじのむじょうにのまれざるはあらず》』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟ばかりは逃れられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ。」と、冗談のように仰有《おっしゃ》いますと、御姫様はとんと拗《す》ねたように、大殿油《おおとのあぶら》の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有《おっしゃ》います。ではもう始めから私《わたくし》を、御捨てになる御心算《おつもり》でございますか。」と、優しく若殿様を御睨《おにら》みなさいました。が、若殿様は益《ますます》御機嫌よく、御盃を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算《つもり》で居《お》ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる。」
「たんと御弄《おなぶ》り遊ばしまし。」
御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急にまた御簾《みす》の外の夜色《やしょく》へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果《はか》ないものでございましょうか。」と独り語《ごと》のように仰有いました。すると若殿様はいつもの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果《はか》なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法《ばんぽう》の無常も忘れはてて、蓮華蔵《れんげぞう》世界の妙薬をしばらくしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは恋慕三昧《れんぼざんまい》に日を送った業平《なりひら》こそ、天晴《あっぱれ》知識じゃ。われらも穢土《えど》の衆苦を去って、常寂光《じょうじゃっこう》の中に住《じゅう》そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。何と御身《おみ》もそうは思われぬか。」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。
十九
「されば恋の功徳《くどく》こそ、千万無量とも申してよかろう。」
や
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