忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申して居りました。
 しかしその御文は恙《つつが》なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々《しもじも》には、何とも確かな事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御闊達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗討《やみう》ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御《ご》気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得《ごえとく》になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交《かわ》せになった後、とうとうある小雨《こさめ》の降る夜、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院《にしのとういん》の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我《が》が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉をひそめて居りましたが、私の甥に向いましても、格別|雑言《ぞうごん》などを申す勢いはなかったそうでございます。

        十八

 その後《ご》若殿様はほとんど夜毎に西洞院《にしのとういん》の御屋形へ御通いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の、眩しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近く御呼びよせなさりながら、今昔《こんじゃく》の移り変りを話せと申す御意もございました。確か、その時の事でございましょう。御簾《みす》のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤《ふじ》の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中に、一人二人の女房を御侍《おはべ》らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵《やまとえ》の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲《ひとえがさね》に薄色の袿《うちぎ》を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫夜姫《かぐやひめ》にも御劣りになりはしますまい。
 その内に御酒機嫌《ごしゅきげん》の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺《じい》の申した通り、
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