夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩《にょぼさつ》の幢《はた》、墨染の法衣《ころも》、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。

        十七

 危くつき当りそうになった摩利信乃法師《まりしのほうし》は、咄嗟《とっさ》に身を躱《かわ》しましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平太夫《へいだゆう》の姿を見守りました。が、あの老爺《おやじ》はとんとそれに頓着する容子《ようす》もなく、ただ、二三歩譲っただけで、相不変《あいかわらず》とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》を後《うしろ》にして、佇《たたず》んでいる沙門の眼《ま》なざしが、いかに天狗の化身《けしん》とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反《かえ》ってその眼なざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜《ななめ》に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
 が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字《くじ》を切りながら、何か咒文《じゅもん》のようなものを口の内に繰返して、※[#「均−土」、第3水準1−14−75]々《そうそう》歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門《なかみかど》と云うような語《ことば》が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして、側目《わきめ》もふらず悄々《しおしお》と歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院《にしのとういん》の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては
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