こう仰有《おっしゃ》って若殿様は、いつものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序《ついで》ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ。」
私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦《にが》りきった面色《めんしょく》が、泣くとも笑うともつかない気色《けしき》を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙《せわ》しそうに、働かせて居《お》るのでございます。するとその容子《ようす》が、笑止《しょうし》ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑顔《おえがお》を御やめになると、縄尻を控えていた雑色《ぞうしき》に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい。」と、難有《ありがた》い御諚《ごじょう》がございました。
それから間もなくの事でございます。一夜の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花橘《はなたちばな》の枝を肩にして、這々《ほうほう》裏の御門から逃げ出して参りました。所がその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥《おい》の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺《おやじ》の跡をつけたのでございます。
二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足《はだし》を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿若葉の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》のする、築土《ついじ》つづきの都大路《みやこおおじ》を、とぼとぼと歩いて参ります。途々通りちがう菜売りの女などが、稀有《けう》な文使《ふづか》いだとでも思いますのか、迂散《うさん》らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺《おやじ》はとんとそれにも目をくれる気色《けしき》はございません。
この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、しばらくは猶も跡を慕って参りますと、丁度|油小路《あぶらのこうじ》へ出ようと云う、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前で、折からあの辻をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙門《しゃもん》が、出合いがしらに平太
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