するとその御容子《ごようす》にひき入れられたのか、しばらくの間は御姫様を始め、私までも口を噤《つぐ》んで、しんとした御部屋の中には藤の花の※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《におい》ばかりが、一段と高くなったように思われましたが、それを御座《おざ》が白けたとでも、思ったのでございましょう。女房たちの一人が恐る恐る、
「では、この頃洛中に流行《はや》ります摩利の教とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう。」と、御話の楔《くさび》を入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙門には、いろいろ怪しい評判があるようでございませんか。」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油《おおとのあぶら》の燈心をわざとらしく掻立《かきた》てました。

        二十

「何、摩利《まり》の教。それはまた珍しい教があるものじゃ。」
 何か御考えに耽っていらしった若殿様は、思い出したように、御盃を御挙げになると、その女房の方を御覧になって、
「摩利と申すからは、摩利支天《まりしてん》を祭る教のようじゃな。」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女菩薩《にょぼさつ》の姿じゃと申す事でございます。」
「では、波斯匿王《はしのくおう》の妃《きさい》の宮であった、茉利《まり》夫人の事でも申すと見える。」
 そこで私は先日神泉苑の外《そと》で見かけました、摩利信乃法師《まりしのほうし》の振舞を逐一御話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏菩薩の御像《おすがた》にも似ていないのでございます。別してあの赤裸《あかはだか》の幼子《おさなご》を抱《いだ》いて居《お》るけうとさは、とんと人間の肉を食《は》む女夜叉《にょやしゃ》のようだとも申しましょうか。とにかく本朝には類《たぐい》のない、邪宗の仏《ほとけ》に相違ございますまい。」と、私の量見を言上致しますと、御姫様は美しい御眉《おんまゆ》をそっと御ひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天狗の化身《けしん》のように見えたそうな。」と、念を押すように御尋ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼に羽搏《はう》って出て来たようでござ
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