御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥《おい》に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫《へいだゆう》が、なぜか堀川の御屋形のものを仇《かたき》のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春日《はるび》が※[#「均−土」、第3水準1−14−75]《にお》っている築地《ついじ》の上から白髪頭《しらがあたま》を露《あらわ》して、檜皮《ひわだ》の狩衣《かりぎぬ》の袖をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人《ひるぬすびと》か。盗人とあれば容赦《ようしゃ》はせぬ。一足でも門内にはいったが最期《さいご》、平太夫が太刀《たち》にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ。」と、噛みつくように喚《わめ》きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰《にんじょうざた》にも及んだでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞《まり》を礫《つぶて》代りに投げつけただけで、帰って来たと申して居りました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向それにも御頓着なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、あるいはまた結構な絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よく御遣《おつかわ》しになりました。さればこそ、日頃も仰有《おっしゃ》る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業《わざ》じゃ。」に、少しも違いはなかったのでございます。

        九

 丁度その頃の事でございます。洛中《らくちゅう》に一人の異形《いぎょう》な沙門《しゃもん》が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利《まり》の教と申すものを説き弘《ひろ》め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方《かた》もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦《しんたん》から天狗《てんぐ》が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿《そめどの》の御后《おきさき》に鬼が憑《つ》いたなどと申します通り、この沙門の事を譬《たと》えて云ったのでございます。
 そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはり其頃の事でございました。
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