枝に御文を結んだのを渡したなり、無言でまた、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言もほかには御便りがございません。
思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯《いたずら》好きの若殿原から、細々《こまごま》と御消息で、鴉《からす》の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。
八
こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状《ごぎょうじょう》を、嘘のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事《そらごと》をさし加えよう道理はございません。その頃|洛中《らくちゅう》で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大御好きで、長虫《ながむし》までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後《あと》の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門《なかみかど》の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形にはただ、先刻御耳に入れました平太夫《へいだゆう》を頭《かしら》にして、御召使の男女《なんにょ》が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御闊達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方《かた》と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨《いこん》で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩《やから》も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿《おな》くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆|跡方《あとかた》のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれほどまでは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝《ひとづて》に承《うけたま》わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反《かえ》って誰よりも、素気《すげ》なく
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