へ急いで来たのです。
「委細《いさい》を聞き終った日錚和尚は、囲炉裡《いろり》の側にいた勇之助《ゆうのすけ》を招いで、顔も知らない母親に五年ぶりの対面をさせました。女の言葉が嘘でない事は、自然と和尚にもわかったのでしょう。女が勇之助を抱き上げて、しばらく泣き声を堪《こら》えていた時には、豪放濶達《ごうほうかったつ》な和尚の眼にも、いつか微笑を伴った涙が、睫毛《まつげ》の下に輝いていました。
「その後《ご》の事は云わずとも、大抵御察しがつくでしょう。勇之助は母親につれられて、横浜の家へ帰りました。女は夫や子供の死後、情《なさけ》深い運送屋主人夫婦の勧《すす》め通り、達者な針仕事を人に教えて、つつましいながらも苦しくない生計を立てていたのです。」
 客は長い話を終ると、膝《ひざ》の前の茶碗をとり上げた。が、それに唇は当てず、私《わたし》の顔へ眼をやって、静にこうつけ加えた。
「その捨児が私です。」
 私は黙って頷《うなず》きながら、湯ざましの湯を急須《きゅうす》に注《つ》いだ。この可憐な捨児の話が、客|松原勇之助《まっぱらゆうのすけ》君の幼年時代の身の上話だと云う事は、初対面の私にもとうに
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