たそうです。その内に運が向いて来たのか、三年目の夏には運送屋の主人が、夫の正直に働くのを見こんで、その頃ようやく開け出した本牧辺《ほんもくへん》の表通りへ、小さな支店を出させてくれました。同時に女も奉公をやめて、夫と一しょになった事は元より云うまでもありますまい。
「支店は相当に繁昌《はんじょう》しました。その上また年が変ると、今度も丈夫そうな男の子が、夫婦の間《あいだ》に生まれました。勿論悲惨な捨子の記憶は、この間も夫婦の心の底に、蟠《わだかま》っていたのに違いありません。殊に女は赤子の口へ乏しい乳を注ぐ度に、必ず東京を立ち退《の》いた晩がはっきりと思い出されたそうです。しかし店は忙《いそが》しい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金が出来た。――と云うような始末でしたから、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生活を送る事だけは出来たのです。
「が、そう云う幸運が続いたのも、長い間の事じゃありません。やっと笑う事もあるようになったと思うと、二十七年の春|※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》、夫はチブスに罹《かか》ったなり、一週間とは床《とこ》につかず、
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