した所が、容易な事じゃありません。守《も》りをするのから牛乳の世話まで、和尚自身が看経《かんきん》の暇には、面倒を見ると云う始末なのです。何でも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折悪く河岸の西辰《にしたつ》と云う大檀家《おおだんか》の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣《ころも》の胸に、熱の高い子供を抱《だ》いたまま、水晶《すいしょう》の念珠《ねんじゅ》を片手にかけて、いつもの通り平然と、読経《どきょう》をすませたとか云う事でした。
「しかしその間《ま》も出来る事なら、生みの親に会わせてやりたいと云うのが、豪傑《ごうけつ》じみていても情《じょう》に脆《もろ》い日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登る事があると、――今でも行って御覧になれば、信行寺の前の柱には「説教、毎月十六日」と云う、古い札《ふだ》が下《さが》っていますが、――時々和漢の故事を引いて、親子の恩愛を忘れぬ事が、即ち仏恩をも報ずる所以《ゆえん》だ、と懇《ねんごろ》に話して聞かせたそうです。が、説教日は度々めぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名乗って出るものは見当りません。――いや勇之助が三歳の時、た
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