た。僕は或バアを見つけ、その戸を押してはいろうとした。けれども狭いバアの中には煙草の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。のみならず彼等のまん中には耳隠しに結った女が一人熱心にマンドリンを弾《ひ》きつづけていた。僕は忽ち当惑を感じ、戸の中へはいらずに引き返した。するといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。しかも僕を照らしているのは無気味にも赤い光だった。僕は往来に立ちどまった。けれども僕の影は前のように絶えず左右に動いていた。僕は怯《お》ず怯ずふり返り、やっとこのバアの軒に吊《つ》った色|硝子《ガラス》のランタアンを発見した。ランタアンは烈しい風の為に徐《おもむ》ろに空中に動いていた。……
 僕の次にはいったのは或地下室のレストオランだった。僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯註文した。
「ウイスキイを? Black and White ばかりでございますが、……」
 僕は曹達《ソオダ》水の中にウイスキイを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。僕の鄰《となり》には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。のみならず仏蘭西語を使っていた
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