れども光は必ずあるのです。その証拠には奇蹟があるのですから。……奇蹟などと云うものは今でも度たび起っているのですよ」
「それは悪魔の行う奇蹟は。……」
「どうして又悪魔などと云うのです?」
僕はこの一二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れない訣にも行かなかった。
「あすこにあるのは?」
この逞《たくま》しい老人は古い書棚をふり返り、何か牧羊神《ぼくようじん》らしい表情を示した。
「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」
僕は勿論十年|前《ぜん》にも四五冊のドストエフスキイに親しんでいた。が、偶然(?)彼の言った『罪と罰』と云う言葉に感動し、この本を貸して貰った上、前のホテルへ帰ることにした。電燈の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。殊に知り人に遇《あ》うことは到底堪えられないのに違いなかった。僕は努めて暗い往来を選び、盗人《ぬすびと》のように歩いて行った。
しかし僕は暫らくの後、いつか胃の痛みを感じ出した。この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだっ
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