げぬま》へやりました。」
「おじいさんは?」
「おじいさんは銀行へいらしったんでしょう。」
「じゃ誰もいないのかい?」
「ええ、あたしと静やだけ。」
 妻は下を向いたまま、竹の皮に針を透《とお》していた。しかし僕はその声にたちまち妻の※[#「言+虚」、第4水準2−88−74]《うそ》を感じ、少し声を荒らげて言った。
「だって櫛部寓って標札《ひょうさつ》が出ているじゃないか?」
 妻は驚いたように僕の顔を見上げた。その目はいつも叱《しか》られる時にする、途方《とほう》に暮れた表情をしていた。
「出ているだろう?」
「ええ。」
「じゃその人はいるんだね?」
「ええ。」
 妻はすっかり悄気《しょげ》てしまい、竹の皮の鎧《よろい》ばかりいじっていた。
「そりゃいてもかまわないさ。俺《おれ》はもう死んでいるんだし、――」
 僕は半ば僕自身を説得するように言いつづけた。
「お前だってまだ若いんだしするから、そんなことはとやかく言いはしない。ただその人さえちゃんとしていれば、……」
 妻はもう一度僕の顔を見上げた。僕はその顔を眺めた時、とり返しのつかぬことの出来たのを感じた。同時にまた僕自身の顔色も
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