見る見る血の気を失ったのを感じた。
「ちゃんとした人じゃないんだね?」
「あたしは悪い人とは思いませんけれど、……」
 しかし妻自身も櫛部《くしべ》某に尊敬を持っていないことははっきり僕にわかっていた。ではなぜそう言うものと結婚したか? それはまだ許せるとしても、妻は櫛部某の卑《いや》しいところに反って気安さを見出している、――僕はそこに肚《はら》の底から不快に思わずにはいられぬものを感じた。
「子供に父と言わせられる人か?」
「そんなことを言ったって、……」
「駄目《だめ》だ、いくら弁解《べんかい》しても。」
 妻は僕の怒鳴《どな》るよりも前にもう袂《たもと》に顔を隠し、ぶるぶる肩を震《ふる》わせていた。
「何と言う莫迦《ばか》だ! それじゃ死んだって死に切れるものか。」
 僕はじっとしてはいられない気になり、あとも見ずに書斎へはいって行った。すると書斎の鴨居《かもい》の上に鳶口《とびぐち》が一梃《いっちょう》かかっていた。鳶口は柄《え》を黒と朱との漆《うるし》に巻き立ててあるものだった。誰かこれを持っていたことがある、――僕はそんなことを思い出しながら、いつか書斎でも何でもない、枳
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング