ある。
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義輔 「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかなはないさうだね。」
範実 「さう云ふ噂だね。」
義輔 「あいつには好《い》い見せしめだよ。あいつは女御更衣《によごかうい》でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちつとは懲《こ》らしてやる方が好い。」
範実 「へええ、君も孔子の御弟子か?」
義輔 「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為に、泣かされたか位は知つてゐるのだ。もう一言|次手《ついで》につけ加へれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨んだ家来があるか、それもまんざら知らないぢやない。さう云ふ迷惑をかける男は当然|鼓《こ》を鳴らして責むべき者だ。君はさう考へないかね?」
範実 「さうばかりも行かないからね。成程《なるほど》平中一人の為に、世間は迷惑してゐるかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負ふべきものでもなからうぢやないか?」
義輔 「ぢや又外に誰が負ふのだね?」
範実 「それは女に負はせるのさ。」
義輔 「女に負はせるのは可哀さうだよ。」
範実 「平中に負はせるのも可哀さうぢやないか?」
義輔 「しかし平中が口説《くど》いたのだからな。」
範実 「男は戦場に太刀打ちをするが、女は寝首《ねくび》しか掻《か》かないのだ。人殺しの罪は変るものか。」
義輔 「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだらう? 我々は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませてゐる。」
範実 「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、如何《いか》なる因果か知らないが、互に傷《きずつ》け合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」
義輔 「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の鰌《どぢやう》も竜になるだらう。」
範実 「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の文《ふみ》を読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、到底平中の敵ぢやないよ。
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