うご》は御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」
 平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳に囁《ささや》かうとした。が、いくら気は急《せ》いても、舌は上顋《うはあご》に引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。――と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかつた。
 一瞬間、――その一瞬間が過ぎてしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐に、雨の音も、空焚きの匂も、本院の大臣《おとど》も、女《め》の童《わらは》も忘却してしまつたに相違ない。しかしこの際《きは》どい刹那《せつな》に侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しさうな声を出した。
「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸金が下してございませんから、あれをかけて参ります。」
 平中は唯|頷《うなづ》いた。侍従は二人の褥《しとね》の上に、匂の好い暖《ぬく》みを残した儘、そつと其処を立つて行つた。
「春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」
 平中はちやんと眼を開《あ》いたなり、彼自身にも判然しない、いろいろな事を考へてゐる。すると向うのくら闇に、かちりと懸金を下す音がした。
「雨竜、香炉、雨夜のしなさだめ、ぬば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり、夢にだに、――どうしたのだらう? 懸け金はもう下りたと思つたが、――」
 平中は頭を擡《もた》げて見た。が、あたりにはさつきの通り、空焚きの匂が漂つた、床《ゆか》しい闇があるばかりである。侍従は何処へ行つたものか、衣ずれの音も聞えて来ない。
「まさか、――いや、事によると、――」
 平中は褥《しとね》を這ひ出すと、又元のやうに手探りをしながら、向うの障子へ辿《たど》りついた。すると障子には部屋の外から、厳重に懸け金が下してある。その上耳を澄ませて見ても、足音一つさせるものはない。局々が大雨の中に、いづれもひつそりと寝静まつてゐる。
「平中、平中、お前はもう天が下の色好みでも何でもない。――」
 平中は障子に寄りかかつた儘、失心したやうに呟いた。
「お前の容色も劣へた。お前の才も元のやうぢやない。お前は範実《のりざね》や義輔《よしすけ》よりも、見下げ果てた意気地なしだ。……」

     四 好色問答

 これは平中の二人の友達――義輔と範実との間に交換された、或無駄話の一節で
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