しまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか? それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜《あまりよう》、雨蛙、雨革《あまがは》、雨宿り、……」
こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然|弥陀《みだ》の来迎《らいがう》を拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば遣戸《やりど》の向うに、誰か懸け金を外《はづ》した音が、はつきり耳に響いたのである。
平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりと閾《しきゐ》の上を辷《すべ》つた。その向うには不思議な程、空焚《そらだき》の匂が立ち罩《こ》めた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄つた。が、この艶《なまめ》いた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさはつたと思へば、衣桁《いかう》や鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。
「ゐないのかな? ゐれば何とか云ひさうなものだ。」
かう彼が思つた時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさはつた。それからずつと探りまはすと、絹らしい打衣《うちぎぬ》の袖にさはる。その衣《きぬ》の下の乳房にさはる。円々した頬や顋《あご》にさはる。氷よりも冷たい髪にさはる。――平中はとうとうくら闇の中に、ぢつと独り横になつた、恋しい侍従を探り当てた。
これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけた儘、しどけない姿を横たへてゐる。彼は其処にゐすくんだなり、我知らずわなわな震へ出した。が、侍従は不相変、身動きをする気色さへ見えない。こんな事は確か何かの草紙に、書いてあつたやうな心もちがする。それともあれは何年か以前、大殿油《おほとのあぶら》の火影《ほかげ》に見た何かの画巻にあつたのかも知れない。
「忝《かたじけ》ない。忝ない。今まではつれないと思つてゐたが、もう向後《か
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