いた後、平中は独りにやにやしてゐた。
「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。兎角《とかく》女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ甲所《かんどころ》を知らないから、義輔《よしすけ》や範実《のりざね》は何と云つても、――待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話が旨《うま》すぎるやうだぞ。――」
 平中はそろそろ不安になつた。
「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に絆《ほだ》されても、今までは見向きもしなかつた侍従が、――と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」
 平中は衣紋《えもん》を直しながら、怯《お》づ怯《お》づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇の外《ほか》に何も見えない。その中に唯雨の音が、檜肌葺《ひはだぶき》の屋根をどよませてゐる。
「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも一心《いつしん》にひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」
 平中は耳を側立《そばだ》てた。成程《なるほど》ふと気がついて見れば、不相変《あひかはらず》小止《をや》みない雨声《うせい》と一しよに、御前《ごぜん》へ詰めてゐた女房たちが局々《つぼねつぼね》に帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。
「此処が辛抱のし所だな。もう半時《はんとき》もたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だか肚《はら》の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの胸算用《むなさんよう》も見透かして
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