」
義輔 「しかしだね。しかし天才は君の云ふやうに、罪ばかり作つてはゐないぢやないか? たとへば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の誦経《ずきやう》を聞けば――」
範実 「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云ひはしない。罪も作ると云つてゐるのだ。」
義輔 「ぢや平中とは違ふぢやないか? あいつの作るのは罪ばかりだぜ。」
範実 「それは我々にはわからない筈だ。仮名も碌《ろく》に書けないものには、道風の書もつまらないぢやないか? 信心気《しんじんき》のちつともないものには、空海上人の誦経《ずきやう》よりも、傀儡《くぐつ》の歌の方が面白いかも知れない。天才の功徳《くどく》がわかる為には、こちらにも相当の資格が入るさ。」
義輔 「それは君の云ふ通りだがね、平中|尊者《そんじや》の功徳なぞは、――」
範実 「平中の場合も同じぢやないか? ああ云ふ好色の天才の功徳は、女だけが知つてゐる筈だ。君はさつきどの位女が平中の為に泣かされたかと云つたが、僕は反対にかう云ひたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味はつたか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教へられたか、どの位女が平中の為に、――」
義輔 「いや、もうその位で沢山だよ。君のやうに理窟をつければ、案山子《かかし》も鎧武者《よろひむしや》になつてしまふ。」
範実 「君のやうに嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思つてしまふぜ。」
義輔 「嫉妬深い? へええ、これは意外だね。」
範実 「君は平中を責める程、淫奔《いんぽん》な女を責めないぢやないか? たとひ口では責めてゐても、肚の底で責めてゐまい。それはお互に男だから、何時か嫉妬が加はるのだ。我々はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になつて見たいと云ふ、人知れない野心を持つてゐる。その為に平中は謀叛人《むほんにん》よりも、一層我々に憎まれるのだ。考へて見れば可哀さうだよ。」
義輔 「ぢや君も平中になりたいかね?」
範実 「僕か? 僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽ちその女に飽きてしまふ。さうして誰か外の女に、可笑しい程夢中になつてしまふ。あれは平中の心の中には、何時《いつ》も巫山《ふざん》の神女《しんによ》のやうな、人倫《じんりん》を絶し
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング