のくらいなら己の方で渡を殺してしまってやる。」――涙がなくて泣いているあの女の目を見た時に、己は絶望的にこう思った。しかもこの己の恐怖は、己が誓言《せいごん》をした後《あと》で、袈裟が蒼白い顔に片靨《かたえくぼ》をよせながら、目を伏せて笑ったのを見た時に、裏書きをされたではないか。
ああ、己はその呪《のろ》わしい約束のために、汚《けが》れた上にも汚れた心の上へ、今また人殺しの罪を加えるのだ。もし今夜に差迫って、この約束を破ったなら――これも、やはり己には堪えられない。一つには誓言《せいごん》の手前もある。そうしてまた一つには、――己は復讐を恐れると云った。それも決して嘘ではない。しかしその上にまだ何かある。それは何だ? この己を、この臆病な己を追いやって罪もない男を殺させる、その大きな力は何だ? 己にはわからない。わからないが、事によると――いやそんな事はない。己はあの女を蔑《さげす》んでいる。恐れている。憎んでいる。しかしそれでも猶《なお》、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない。」
盛遠《もりとお》は徘徊を続けながら、再び、口を開かない。月明《つきあかり》。どこかで
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