の厭らしさが、絶えず己を虐《さいな》んでいた事は、元よりわざわざ云う必要もない。もし出来たなら、その時に、己は己の約束をその場で破ってしまいたかった。そうして、あの不貞な女を、辱しめと云う辱しめのどん底まで、つき落してしまいたかった。そうすれば己の良心は、たとえあの女を弄《もてあそ》んだにしても、まだそう云う義憤の後《うしろ》に、避難する事が出来たかも知れない。が、己にはどうしても、そうする余裕が作れなかった。まるで己の心もちを見透《みとお》しでもしたように、急に表情を変えたあの女が、じっと己の目を見つめた時、――己は正直に白状する。己が日と時刻とをきめて、渡を殺す約束を結ぶような羽目《はめ》に陥ったのは、完《まった》く万一己が承知しない場合に、袈裟が己に加えようとする復讐《ふくしゅう》の恐怖からだった。いや、今でも猶《なお》この恐怖は、執念深く己の心を捕えている。臆病だと哂《わら》う奴は、いくらでも哂うが好《い》い。それはあの時の袈裟を知らないもののする事だ。「己《おれ》が渡《わたる》を殺さないとすれば、よし袈裟《けさ》自身は手を下さないにしても、必ず、己はこの女に殺されるだろう。そ
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