尉《わたるさえもんのじょう》を、――袈裟《けさ》がその愛を衒《てら》っていた夫を殺そうと云うくらい、そうしてそれをあの女に否応《いやおう》なく承諾させるくらい、目的に協《かな》った事はない。そこで己は、まるで悪夢に襲われた人間のように、したくもない人殺しを、無理にあの女に勧めたのであろう。それでも己が渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、後《あと》は人間の知らない力が、(天魔波旬《てんまはじゅん》とでも云うが好《い》い。)己の意志を誘《さそ》って、邪道へ陥れたとでも解釈するよりほかはない。とにかく、己は執念深く、何度も同じ事を繰返して、袈裟の耳に囁いた。
すると袈裟はしばらくして、急に顔を上げたと思うと、素直に己の目《もく》ろみに承知すると云う返事をした。が、己にはその返事の容易だったのが、意外だったばかりではない。その袈裟の顔を見ると、今までに一度も見えなかった不思議な輝きが目に宿っている。姦婦《かんぷ》――そう云う気が己はすぐにした。と同時に、失望に似た心もちが、急に己の目ろみの恐しさを、己の眼の前へ展げて見せた。その間も、あの女の淫《みだ》りがましい、凋《しお》れた容色
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