う》と云い、一つとしてあの女の心と体との醜さを示していないものはない。もしそれまでの己があの女を愛していたとしたら、その愛はあの日を最後として、永久に消えてしまったのだ。あるいは、もしそれまでの己《おれ》があの女を愛していなかったとしたら、あの日から己の心には新しい憎《にくし》みが生じたと云ってもまた差支《さしつか》えない。そうして、ああ、今夜己はその己が愛していない女のために、己が憎んでいない男を殺そうと云うのではないか!
 それも完《まった》く、誰の罪でもない。己がこの己の口で、公然と云い出した事なのだ。「渡《わたる》を殺そうではないか。」――己があの女の耳に口をつけて、こう囁《ささや》いた時の事を考えると、我ながら気が違っていたのかとさえ疑われる。しかし己は、そう囁いた。囁くまいと思いながら、歯を食いしばってまでも囁いた。己にはそれが何故《なぜ》囁きたかったのか、今になって振りかえって見ると、どうしてもよくわからない。が、もし強いて考えれば、己はあの女を蔑《さげす》めば蔑むほど、憎く思えば思うほど、益々何かあの女に凌辱《りょうじょく》を加えたくてたまらなくなった。それには渡左衛門
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