今様《いまよう》を謡《うた》う声がする。
  げに人間の心こそ、無明《むみょう》の闇も異《ことな》らね、
  ただ煩悩《ぼんのう》の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。

        下

 夜、袈裟《けさ》が帳台《ちょうだい》の外で、燈台の光に背《そむ》きながら、袖を噛んで物思いに耽っている。

     その独白

「あの人は来るのかしら、来ないのかしら。よもや来ない事はあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしない所を見ると、急に気でも変ったではあるまいか。もしひょっとして来なかったら――ああ、私はまるで傀儡《くぐつ》の女のようにこの恥しい顔をあげて、また日の目を見なければならない。そんなあつかましい、邪《よこしま》な事がどうして私に出来るだろう。その時の私こそ、あの路ばたに捨ててある死体と少しも変りはない。辱《はずかし》められ、踏みにじられ、揚句《あげく》の果にその身の恥をのめのめと明るみに曝《さら》されて、それでもやはり唖《おし》のように黙っていなければならないのだから。私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれない。いやいや、あの人は必ず、来る。私はこの間
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