鶴の一生はこう云う彼には如何にも浅ましい一生だった。成程ゴム印の特許を受けた当座は比較的彼の一生でも明るい時代には違いなかった。しかしそこにも儕輩《さいはい》の嫉妬や彼の利益を失うまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめていた。ましてお芳を囲い出した後は、――彼は家庭のいざこざ[#「いざこざ」に傍点]の外にも彼等の知らない金の工面にいつも重荷を背負いつづけだった。しかも更に浅ましいことには年の若いお芳に惹《ひ》かれていたものの、少くともこの一二年は何度内心にお芳親子を死んでしまえと思ったか知れなかった。
「浅ましい?――しかしそれも考えて見れば、格別わしだけに限ったことではない。」
彼は夜などはこう考え、彼の親戚《しんせき》や知人のことを一々細かに思い出したりした。彼の婿の父親は唯《ただ》「憲政を擁護する為に」彼よりも腕の利かない敵を何人も社会的に殺していた。それから彼に一番親しい或年輩の骨董屋《こっとうや》は先妻の娘に通じていた。それから或弁護士は供託金を費消していた。それから或|篆刻家《てんこくか》は、――しかし彼等の犯した罪は不思議にも彼の苦しみには何の変化も与えなかった。
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