油っ手を拭《ふ》き、腰ぬけのお鳥の嫉妬は勿論、彼女自身の嫉妬にもやはりこう云う神秘な力が働いていることを考えたりしていた。
「まあ、お母さん、どうしたんです? こんな所まで這《は》い出《だ》して来て。お母さんったら。――甲野さん、ちょっと来て下さい。」
お鈴の声は「離れ」に近い縁側から響いて来るらしかった。甲野はこの声を聞いた時、澄み渡った鏡に向ったまま、始めてにやりと冷笑を洩《も》らした。それからさも驚いたように「はい唯今《ただいま》」と返事をした。
五
玄鶴はだんだん衰弱して行った。彼の永年の病苦は勿論《もちろん》、彼の背中から腰へかけた床ずれの痛みも烈《はげ》しかった。彼は時々|唸《うな》り声《ごえ》を挙げ、僅《わず》かに苦しみを紛《まぎ》らせていた。しかし彼を悩ませたものは必しも肉体的苦痛ばかりではなかった。彼はお芳の泊っている間は多少の慰めを受けた代りにお鳥の嫉妬《しっと》や子供たちの喧嘩《けんか》にしっきりない苦しみを感じていた。けれどもそれはまだ善かった。玄鶴はお芳の去った後は恐しい孤独を感じた上、長い彼の一生と向い合わない訣《わけ》には行かなかった。
玄
前へ
次へ
全29ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング