のみならず逆に生そのものにも暗い影を拡《ひろ》げるばかりだった。
「何、この苦しみも長いことはない。お目出度くなってしまいさえすれば………」
 これは玄鶴にも残っていたたった一つの慰めだった。彼は心身に食いこんで来るいろいろの苦しみを紛らす為に楽しい記憶を思い起そうとした。けれども彼の一生は前にも言ったように浅ましかった。若《も》しそこに少しでも明るい一面があるとすれば、それは唯何も知らない幼年時代の記憶だけだった。彼は度たび夢うつつの間に彼の両親の住んでいた信州の或山峡の村を、――殊に石を置いた板葺《いたぶ》き屋根や蚕臭《かいこくさ》い桑ボヤを思い出した。が、その記憶もつづかなかった。彼は時々唸り声の間に観音経を唱えて見たり、昔のはやり歌をうたって見たりした。しかも「妙音観世音《みょうおんかんぜおん》、梵音海潮音《ぼんおんかいちょうおん》、勝彼世間音《しょうひせけんおん》」を唱えた後、「かっぽれ、かっぽれ」をうたうことは滑稽《こっけい》にも彼には勿体《もったい》ない気がした。
「寝るが極楽。寝るが極楽………」
 玄鶴は何も彼も忘れる為に唯ぐっすり眠りたかった。実際又甲野は彼の為に催眠
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