った。彼はこの数日以来、門の内へはいるが早いか、忽《たちま》ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床に就《つ》いている玄鶴の息の匂《におい》だった。が、勿論《もちろん》家の外にはそんな匂の出る筈《はず》はなかった。冬の外套《がいとう》の腋《わき》の下に折鞄《おりかばん》を抱えた重吉は玄関前の踏み石を歩きながら、こういう彼の神経を怪まない訣《わけ》には行かなかった。
玄鶴は「離れ」に床をとり、横になっていない時には夜着の山によりかかっていた。重吉は外套や帽子をとると、必ずこの「離れ」へ顔を出し、「唯今《ただいま》」とか「きょうは如何ですか」とか言葉をかけるのを常としていた。しかし「離れ」の閾《しきい》の内へは滅多に足も入れたことはなかった。それは舅《しゅうと》の肺結核に感染するのを怖《おそ》れる為でもあり、又一つには息の匂を不快に思う為でもあった。玄鶴は彼の顔を見る度にいつも唯「ああ」とか「お帰り」とか答えた。その声は又力の無い、声よりも息に近いものだった。重吉は舅にこう言われると、時々彼の不人情に後ろめたい思いもしない訣ではなかった。けれども「離れ」へはいることはどうも彼に
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