しかし「玄鶴山房」は兎《と》に角《かく》小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。殊に近頃は見越しの松に雪よけの縄がかかったり、玄関の前に敷いた枯れ松葉に藪柑子《やぶこうじ》の実が赤らんだり、一層風流に見えるのだった。のみならずこの家のある横町も殆《ほとん》ど人通りと云うものはなかった。豆腐屋さえそこを通る時には荷を大通りへおろしたなり、喇叭《らっぱ》を吹いて通るだけだった。
「玄鶴山房――玄鶴と云うのは何だろう?」
 たまたまこの家の前を通りかかった、髪の毛の長い画学生は細長い絵の具箱を小脇《こわき》にしたまま、同じ金鈕《きんボタン》の制服を着たもう一人の画学生にこう言ったりした。
「何だかな、まさか厳格と云う洒落《しゃれ》でもあるまい。」
 彼等は二人とも笑いながら、気軽にこの家の前を通って行った。そのあとには唯《ただ》凍《い》て切った道に彼等のどちらかが捨てて行った「ゴルデン・バット」の吸い殻が一本、かすかに青い一すじの煙を細ぼそと立てているばかりだった。………

   二

 重吉は玄鶴の婿になる前から或銀行へ勤めていた。従って家に帰って来るのはいつも電灯のともる頃だ
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