つきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。
彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は自《おのづか》ら勢を生じて、一気に紙の上を辷《すべ》りはじめる。彼は神人《しんじん》と相搏《あひう》つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々《こんこん》として何処からか溢れて来る。彼はその凄《すさま》じい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、緊《かた》く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今|己《おれ》が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」
しかし光の靄《もや》に似た流は、少しもその速力を緩《ゆる》めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃《はうはい》として彼を襲つて来る。彼は遂《つひ》に全くその虜《とりこ》になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を駆《
前へ
次へ
全47ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング