か》つた。
この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉《きよ》に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧《げさくざんまい》の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳《おごそ》かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓《ざんし》を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
* * *
その間も茶の間の行燈のまはりでは、姑《しうと》のお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《わうじやく》らしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様《とつさん》はまだ寝ないかねえ。」
やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしく呟《つぶや》いた。
「きつと又お書きもので、夢中になつていらつしやるのでせう。」
お路は眼を針から離さずに、返
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