この孫の口から、かう云ふ語《ことば》を聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がさう云つたか。勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ。」
 六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑ひながら、子供のやうに頷《うなづ》いた。

       十五

 その夜の事である。
 馬琴は薄暗い円行燈《まるあんどう》の光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、蟋蟀《こほろぎ》の声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。
 始め筆を下《おろ》した時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……
「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」
 馬琴はややもすれば走りさうな筆を警《いまし》めながら、何度もかう自分に囁《ささや》いた。が、頭の中にはもうさ
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