いつて。」
「辛抱してゐるよ。」馬琴は思はず、真面目な声を出した。
「もつと、もつとようく辛抱なさいつて。」
「誰がそんな事を云つたのだい。」
「それはね。」
太郎は悪戯《いたづら》さうに、ちよいと彼の顔を見た。さうして笑つた。
「だあれだ?」
「さうさな。今日は御仏参に行つたのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだらう。」
「違ふ。」
断然として首を振つた太郎は、馬琴の膝から、半分腰を擡《もた》げながら、顋《あご》を少し前へ出すやうにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音様がさう云つたの。」
かう云ふと共に、この子供は、家内中に聞えさうな声で嬉しさうに笑ひながら、馬琴につかまるのを恐れるやうに、急いで彼の側から飛び退いた。さうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるやうにして茶の間の方へ逃げて行つた。
馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那《せつな》に閃《ひらめ》いたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それと共に彼の眼には、何時か涙が一ぱいになつた。この冗談は太郎が考へ出したのか、或は又母が教へてやつたのか、それは彼の問ふ所ではない。この時、
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