ましく開放《あけはな》されなかつたら、さうして「お祖父《ぢい》様唯今。」と云ふ声と共に、柔かい小さな手が、彼の頸《くび》へ抱きつかなかつたら、彼は恐らくこの憂欝《いううつ》な気分の中に、何時までも鎖《とざ》されてゐた事であらう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持つてゐる大胆と率直とを以て、いきなり馬琴の膝の上へ勢よくとび上つた。
「お祖父様唯今。」
「おお、よく早く帰つて来たな。」
この語《ことば》と共に、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のやうな悦《よろこ》びが輝いた。
十四
茶の間の方では、癇高《かんだか》い妻のお百《ひやく》の声や内気らしい嫁のお路《みち》の声が賑《にぎやか》に聞えてゐる。時々太い男の声がまじるのは、折から伜《せがれ》の宗伯《そうはく》も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝に跨がりながら、それを聞きすましでもするやうに、わざと真面目な顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなつて、小さな鼻の穴のまはりが、息をする度に動いてゐる。
「あのね、お祖父様にね。」
栗梅《くりうめ》の小さな紋附を着た太郎は、突然かう云ひ出した。考へよう
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