ないか。――手紙はかう云ふ文句ではじまつて、先輩として後輩を食客に置かないのは、鄙吝《ひりん》の為す所だと云ふ攻撃で、僅に局を結んでゐる。馬琴は腹が立つたから、すぐに返事を書いた。さうしてその中に、自分の読本が貴公のやうな軽薄児に読まれるのは、一生の恥辱だと云ふ文句を入れた。その後|杳《えう》として消息を聞かないが、彼はまだ今まで、読本の稿を起してゐるだらうか。さうしてそれが何時《いつ》か日本中の人間に読まれる事を、夢想してゐるだらうか。…………
馬琴はこの記憶の中に、長島政兵衛なるものに対する情無さと、彼自身に対する情無さとを同時に感ぜざるを得なかつた。さうしてそれは又彼を、云ひやうのない寂しさに導いた。が、日は無心に木犀《もくせい》の匂を融かしてゐる。芭蕉や梧桐も、ひつそりとして葉を動かさない。鳶《とび》の声さへ以前の通り朗《ほがらか》である。この自然とあの人間と――十分の後、下女の杉が昼飯の支度の出来た事を知らせに来た時まで、彼はまるで夢でも見てゐるやうに、ぼんやり縁側の柱に倚《よ》りつづけてゐた。
十
独りで寂しい昼飯をすませた彼は、漸《やうや》く書斎へひ
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