が、眼に浮んだ。さうして又、時間をつぶされる迷惑を、苦々しく心に思ひ起した。
「今日も朝の中はつぶされるな。」
 かう思ひながら、彼が式台へ上ると、慌しく出迎へた下女の杉《すぎ》が、手をついた儘、下から彼の顔を見上げるやうにして、
「和泉屋《いづみや》さんが、御居間でお帰りをお待ちでございます。」と云つた。
 彼は頷《うなづ》きながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お百《ひやく》は。」
「御仏参《ごぶつさん》にお出でになりました。」
「お路《みち》も一しよか。」
「はい。坊ちやんと御一しよに。」
「伜《せがれ》は。」
「山本様へいらつしやいました。」
 家内は皆、留守である。彼はちよいと、失望に似た感じを味つた。さうして仕方なく、玄関の隣にある書斎の襖《ふすま》を開《あ》けた。
 開けて見ると、そこには、色の白い、顔のてらてら光つてゐる、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管《きせる》を啣《くは》へながら、端然と座敷のまん中に控へてゐる。彼の書斎には石刷《いしずり》を貼つた屏風《びやうぶ》と床にかけた紅楓《こうふう》黄菊《くわうぎく》の双幅《さう
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