急に弛《ゆる》んだのを見ても、知れる事であらう。
「最後に、さう云ふ位置へ己を置いた相手が、あの眇だと云ふ事実も、確に己を不快にしてゐる。もしあれがもう少し高等な相手だつたら、己はこの不快を反撥《はんぱつ》する丈の、反抗心を起してゐたのに相違ない。何にしても、あの眇が相手では、いくら己でも閉口する筈だ。」
馬琴は苦笑しながら、高い空を仰いだ。その空からは、朗《ほがら》かな鳶《とび》の声が、日の光と共に、雨の如く落ちて来る。彼は今まで沈んでゐた気分が次第に軽くなつて来る事を意識した。
「しかし、眇がどんな悪評を立てようとも、それは精々、己を不快にさせる位だ。いくら鳶が鳴いたからと云つて、天日の歩みが止まるものではない。己の八犬伝は必ず完成するだらう。さうしてその時は、日本が古今に比倫《ひりん》のない大伝奇を持つ時だ。」
彼は恢復《くわいふく》した自信を労《いた》はりながら、細い小路を静に家の方へ曲つて行つた。
六
内へ帰つて見ると、うす暗い玄関の沓脱《くつぬ》ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄《せつた》が一足のつてゐる。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののつぺりした顔
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