ゐるとでも思ふのか、依然として猛烈なフイリツピクスを発しつづけてゐる。事によると、これはその眇《すがめ》に災《わざはひ》されて、彼の柘榴口を跨いで出る姿が、見えなかつたからかも知れない。

       五

 しかし、銭湯を出た時の馬琴の気分は、沈んでゐた。眇の毒舌は、少くともこれだけの範囲で、確に予期した成功を収め得たのである。彼は秋晴れの江戸の町を歩きながら、風呂の中で聞いた悪評を、一々彼の批評眼にかけて、綿密に点検した。さうして、それが、如何なる点から考へて見ても、一顧の価のない愚論だと云ふ事実を、即座に証明する事が出来た。が、それにも関らず、一度乱された彼の気分は、容易に元通り、落着きさうもない。
 彼は不快な眼を挙げて、両側の町家を眺めた。町家のものは、彼の気分とは没交渉に、皆その日の生計を励んでゐる。だから「諸国銘葉《しよこくめいえふ》」の柿色の暖簾《のれん》、「本黄楊《ほんつげ》」の黄いろい櫛形の招牌《かんばん》、「駕籠《かご》」の掛行燈《かけあんどう》、「卜筮《ぼくぜい》」の算木《さんぎ》の旗、――さう云ふものが、無意味な一列を作つて、唯《ただ》雑然と彼の眼底を通りす
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